清川家は、相馬中村藩の藩医であった清川務(1844-1902)を初代としている。務は明治維新の時に会津の戦禍をさけて千葉県銚子に移り医院を開業した。その後、横浜に出て米人医師へボンに師事して西洋医学を学び、銚子に戻り医業を続けていたが、船橋に公立千葉病院第二分院ができると医員として勤務、後に私立船橋病院院長となった。1887(明治20)年5月に九日市橋戸に清川病院を開業。
二代目の清川弘道(1882-1961)は、夏見の矢野家より養子に入り、鹿児島の旧制第七高等学校を経て、京都帝国大学福岡医科(現・九州大学医学部)に入学した。1908(明治41)年卒業後、同大学附属病院産婦人科に勤務。その後、1914(大正3)年に帰郷し清川病院の経営にあたった。弘道は、校医、町医、県医師会役員を歴任し、東葛飾医師会副会長となり、1937(昭和12)年船橋市制と共に船橋医師会が独立した時には初代会長となった。
三代目の清川尚道(1907-2000)は旧制静岡高等学校を経て、千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業し、清川病院を継ぐ。船橋ロータリークラブの創設メンバーとなるかたわら、コントン会々長、船橋市美術連盟顧問、船橋市文化財審議会委員を務め、船橋の文化活動にも大きな足跡を残した。また、高校生の時に椿貞雄に師事し実作に励んだ体験もあり、生涯 に渡って椿貞雄の弟子であり、船橋における重要な支援者でもあった。
清川家は初代の務より美術品に対する造詣が深く、なかでも二代目の弘道は椿貞雄と親交があった。椿の妻・隆子が後年、清川弘道との出会いを回想した文章には、「私が風邪をひいてねこんだことがありましたが、その時、土地の有名なお医者さま清川先生(二代弘道)に往診をお願いしましたが、大へん絵がお好きな方で、壁にかけてあった主人の作品伊豆の 風景(三十号)がお気に入って」*とあり、これを契機に清川家は椿の作品を収集していくことになった。
清川記念館は、1986(昭和61)年10 月、三代目の尚道氏により「日本古来の絵画等の美術品を収集・保存し、かつこれを一般に公開しもって日本古来の美術品の保存と日本文化の発展に寄与する」ことを目的に財団法人として設立された。設立後は財団の美術館として、清川家が代々収集してきた絵画等の美術品の公開を通して、地域文化の発展に寄与してきた。1997(平成9)年に閉館し、その後、1999(平成11)年および2000(平成12)年に「船橋市と市民の文化の発展のために」と美術品や文化財の数々が寄贈され、現在、清川コレクションとして船橋市が収蔵している。
*椿隆子「椿貞雄と船橋の思いで」『椿貞雄展』西武美術館1987年
明治時代から続く清川家三代にわたって収集された184 点の美術品や文化財のコレクション。船橋ゆかりの洋画家である椿貞雄の作品をはじめ、岸田劉生、武者小路実篤の書画や、千葉ゆかりの日本画家の石井林響(1884-1930)、磯田長秋(1880-1947)の作品などが収集されている。その特徴は、椿貞雄のまとまった作品群をはじめ、千葉や船橋を中心に活躍した日本画家の作品や、著名な芸術家の南画や文人画などの美術品、および幕末の学者や明治初期の元勲らや医学者の書の一群、医家清川家に伝わった医療器具や生活用具などである。これらは明治から昭和にわたる郷土の芸術文化や地域の歴史、人々の暮らしを今に伝えるものである。